いまの大王。母の御真津姫は、先代の大王の弟、大彦王の娘であり、 御真木の大王の妃。 大彦王の副将であった日子坐の後ろ楯により 大王となる。
記紀:第11代垂仁天皇。 第10代崇神天皇と御間城姫命(大彦命の娘)と間の子。 崇神天皇の第三皇子で、父帝の夢占によって皇太子に立てられた。活目入彦五十狭茅命
日子坐の娘。
美知主の娘。銀金では美姫。
記紀:歌凝比賣。古事記では佐保彦の乱のあと佐保姫の遺言にしたがって妻のひとりとして選ばれたが、 醜さのために垂仁天皇に里に返されたことになっている。
醜い歌凝姫は美人の氷葉州姫と同じくらい想像できません。 きっと、氷葉州姫に意地悪をされて追い返され、権力を握った氷葉州姫が古事記に 好きなことを書いたものと想像されます。
御影の双子の妹姫。佐保彦・佐保姫の母親。運命に翻弄された悲劇の巫女。
記紀:沙本之大闇見戸賣命 。春日建国勝戸売 の娘。 日子坐王の二人目の妻。日子坐王との間には沙穂彦、沙穂姫のほかに袁邪本王 、室毘古王 という子がいる。
袁邪本王 、室毘古王 はどういう経緯で生まれたのでしょうか。子沢山の大闇見戸売というのも面白いですね。実は大闇見戸売は子煩悩で 日子坐とは仲が良かったのでしょうか。あまり想像ができません。
建埴安王の兄で御真木の大王の弟。高志の長引く遠征で私財を使い果たし 流れ矢にあたり死亡。
記紀:四道将軍のひとり。大彦命 第8代孝元天皇の第一皇子。
大闇見戸売と日子坐の間に生まれた佐保の王子。
記紀:沙本毘古王。狭穂彦。 日下部連・甲斐国造の祖。※沙穂彦の反乱
佐保彦がどうして反乱を起こすに至るのか、すごく興味のあるところ です。記紀によると大王の位を狙っていたことになっていますがこれは日子坐が 前大王の兄弟なので可能な話です。氷室さんがどういう展開を考えていたのか、 本当に続きが読みたいです。
佐保彦の妹。大闇見戸売と日子坐王の間の子。
記紀:11代垂仁天皇の皇后で後に誉津別 皇子を生む。
美知主の甥。丹波で生まれた和邇の王子ながら、息長で育ち、長じてのち大和の和邇で暮らす。妻は葛城の高額姫。葛城
記紀:息長宿禰王 第14代仲哀天皇の皇后、神功皇后となった息長帯比売命 は葛城之高額比売との間の子。
葛城の王子。
記紀:古事記によれば、神功皇后紀五年を初めとして三度新羅に攻め入る。捕虜を連れ帰り 桑原・佐糜 ・高宮・忍海 に住まわせて、鉄製品などをつくらせた。 襲津彦の娘、磐之媛 は仁徳天皇の皇后。
古事記によるととっても長生きな人です。ちょっとばかり時代も違うので もしかすると同名の別人かも。
大王の妃にと大切に育てられた葛城の姫で、須久泥王の妻となる。
記紀:葛城之高額比売。天之日矛の子孫で、田道間守の弟、 清日子の孫。多遅摩比多訶 と、その姪、由良度美との間の子。息長宿禰王の妃で、息長帯比売 命、虚空津比売 命、息長日子 王を産んだ。
御真木の大王の弟王。武埴安王。大彦王と日子坐の裏切りにより死亡。
記紀:武波邇安王。波邇夜須毘古。武埴安彦 。※建埴安王の反乱
和邇の長。幼児のころから彦国葺につれられて戦場に赴き、建埴安王の反乱、 高志の戦では副将を務める。佐保の領土に目をつけ、大闇見戸売に夜討ちをかける。
記紀:日子坐は古事記では崇神天皇の兄弟で大毘毘(開化天皇)と意祁都比賣の間の子。
日子坐が実は皇族だというのはフィクサー的な彼の イメージを変えてしまいます。でも子沢山なのは確かで古事記にも11人の 子どもが登場します。
日子坐の伯父。和邇の祖。
記紀:日子国夫玖命。建埴安王を討つ。
丹波の美知主の娘。伊久米の大王の妃となる。
記紀:氷羽州比売。比婆須比売。日葉酢媛命。倭姫 (神宮を伊勢に置いた斎王。 ヤマトタケルの叔母で草薙剣を手渡した。)と第12代景行天皇を産む。
美知主の子。
日子坐の子。息長の長として淡湖を治める。
記紀:水穂之真若王 。 古事記によると日子坐王と天之御影神の娘・息長水依比売と間の子。
ちなみに、日子坐の子にはもうひとり真若王というのがいます。山代之大筒木真若王 というのがそれです。お間違えなきよう。
日子坐の娘。
日子坐の子。丹波へ派遣された四道将軍で河上氏の姫を娶って丹波をおさめる。
記紀:丹波比古多多須美知能宇斯王
前の大王。印恵 と呼ばれ、筑紫から速吸の海峡、本州、安芸、吉備、大和へと戦を進め三輪の古い先住の一族に 形ばかり入り婿することで大和に腰をすえた、初国領有 す大王。 古い大和豪族は大和に入ってきた今来の男という意味で入彦と呼んだ。
記紀:第10代崇神天皇。
第11代垂仁天皇の時代、皇后の兄であり日子坐王(前天皇の兄弟)の皇子であった狭穂彦王は 謀反を計画し狭穂姫に「お前は兄と夫とどちらがいとしいか」と尋ねた。 「兄上です」と答えた狭穂姫に対し狭穂彦は小刀を授けた。※建埴安王の反乱
天皇は、そんなはかりごともしらず狭穂姫の膝を枕に昼寝をしていた。 そこで沙穂姫は小刀を三度振り上げたが、刺すことが出来ず、涙が落ちた。 すると天皇は目を覚まし、「佐保の方から、雨が降ってきて、私の顔をぬらした。 錦の文様のある小蛇が私の首に巻きついた。」と今見た夢の話を仰る。 沙穂姫は、もはや抗弁できないと思い、天皇にことの次第を話してしまった。
天皇はただちに沙穂彦を討とうとしたが、すでに沙穂彦は稲城を築いて いた。しかも身重だった沙穂姫は兄を思い、稲城に駆け込んでしまった。 それゆえ天皇は城の周りを囲むだけにとどめた。 そうしている間に、沙穂姫は御子を出産した。そこで后は 天皇に使いを通じ御子を受け入れてくれるよう申し上げさせた。 天皇は「その兄を恨んではいるが、后はいとおしい」と仰せられ、子とともに后も 取り戻そうとお考えになった。
そこで兵士に「御子を引き取るときに、同時に母君も奪い取れ」と命じた。 一方で后もそれに対する準備をし、御子を抱いて砦の外に差し出した。 兵士は御子を受け取り、母君の髪を握ると髪は自然に落ち、手に巻かれた玉を 握ると玉の緒がちぎれ、衣服をつかむと、たちまちに破れてしまい、御子は 得られたが、母君を連れ戻すことは出来なかった。 兵士の奏上をきいた天皇は失敗を悔い、兵士を恨み、さらには玉を造る職人をも恨んで 玉造から土地を取りあげてしまった。
天皇は后に「この子の名はどうしたらよいか」と 仰せられると、后は「火の中で産んだのですから、その名は 本牟智和気御子とつけたらよいでしょう」と申し上げた。 また天皇は「お前が結んだ下紐は、誰が解いてくれるのか」 と仰せられると、后は「旦波比古多多須美知能宇斯王に兄比売と弟比売という姉妹がいます。 彼女らは忠誠な民です。ゆえに二人をお召しになるのがよいでしょう」と申し上げた。 そのようにして天皇はついに反乱を起こした沙穂彦を殺し、沙穂姫は兄に殉じてしまった。 (古事記を元に簡略化)
第10代崇神天皇の時代、四道将軍のひとり、大彦命が和珥 坂(天 理市)に来たとき、一人の少女が 「御間城入彦 はや 己が命 を 弑せむと 窃まく知らに姫遊 びすも(御間城入彦(崇神天皇のこと)よ。あなたの命を殺そうと、 時をうかがっていることも知らないで、若い娘と遊んでいるよ 。)」という歌を歌って、姿を消してしまった。 不審に思った大彦は戻ってその有様を報告した。すると、倭迹迹日百襲姫命により、この 歌が武埴安彦の反乱の予兆であることがわかり、 武埴安彦とその妻吾田媛 は滅ぼされた。(日本書紀を元に簡略化)
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